第一章 ジェイムズ経験論の輪郭
    

第三節 続・ジェイムズ哲学序説−その哲学的意味−

 ウィリアム・ジェイムズの哲学が個人の人生観、世界観の吐露にすぎないという考え方は彼自身の生涯の有様を知り、彼自らの発する生き生きとした言葉を聞くならば十二分に証明されるところであろう。それならばわれわれはそこからいかなるジェイムズの意図をよみとればいいのだろうか。
 ジェイムズの意図はわれわれの経験を通して実在を把握することにあったと考えられる。それ故哲学の主題となるべきものは直接的、知覚経験の全体であり、それ以外の対象は実在の象徴に触れているにすぎないのである。とりわけわれわれはジェイムズがこの経験という言葉を使用するとき、そこにいささかの知性の働きも重視していないのに気づくべきであろう。
 ジェイムズにとって経験とは実在そのものを把握するそれをさしているのであって、知性の働きが関係する経験は、単に実在の象徴をあらわしているが故に真の経験とはいわれえないのである。そこにおいてわれわれが実在のあつみを理解するためには「直接的に実在を経験するか、あるいはその他の内的生活を共感的にみぬくことによって想像において実在をよびおこすか」
(1)しなければならないのである。
 象徴の把握と実在の把握との違いは、生についての知識が一つの事柄であるのに対し、「生の中にあって存在を通して流れるダイナミックな流れでもって一つの場を効果的にしめること」
(2)が他の事柄であるといいえるほどの違いである。いいかえればそれは一つの事物についての単なる知識が事物それ自身ではないという確固たる信念を結果的にひきおこしている。実在を経験するとはわれわれが私的で人格的な現象そのものをとりあつかうの意である。実在の象徴をとりあつかうとは知的対象以外のなにものでもない普遍的なものや一般的なものをとりあつかうの意である。
 ここにわれわれは以前に知った個人道徳の問題が自己の経験を肯定する人格的、個性的あり方に還元されている姿をみるであろう。世界をどのようにみ、人生をどう生きるかをきめるのはまさに個人における人格であり個性なのである。それは単に抽象的な観念ではなく、具体的存在であり、この存在とともにあるという事実が実在性をもたらすのである。
 そして実在性を把握するとは人格をもち個性をもつ十全の自己の自覚に他ならない。この十全の自己とはわれわれの精神によって考え出されたものではなく、ただ感じられるだけである。なぜならば人格とか個性はわれわれの知性に基づいているのではなく感情に基づいているからである。この感情をもつわれわれの精神の内的状態とはいかなるものなのか。
 実はこの内的状態こそわれわれの経験そのものなのであり、それが唯一の実在性をもちうるものとして考えられている。内的状態の実在性とわれわれの経験の実在性とは同一の事物である。この実在性は個人的経験以外のなにものをも意味しえない。即ち「意識分野プラス感じられ考えられたその対象プラスその対象への態度プラスその態度が属する自己の感覚」
(3)がその個人的経験の意味する内容なのであり、これらの心的作用をともなわざる存在はいかなるものであれ実在的とはいわれえない。これが実在とは何かに対するジェイムズの唯一の解答であり、この考え方を軸にしてジェイムズ哲学は構成されているのである。
 さらにわれわれはジェイムズのこの基本にある考え方にもう一つの考え方を賦与せねばならないだろう。それは前節において考察されたあの信ずる意志、自由意志の存在するところも又人格ないしは個性が基づいているところの感情の奥底であるということである。そこにあるのはただ「感じられるだけであり、ほとんど分析をはじめられない無限に発散する意識下の増大する可能性のすべてをもった分野の全体」
(4)である。
 又それはより暗くより盲目的でわれわれの日常的態度においては理知的に判明しえない性格の層であるが「生成中の真の事実をつかみ、いかにしてできごとが生じるか、又いかにしてその作用が現実的になされるかを直接的に知覚する世界における唯一の場所」
(5)でもある。
 それ故そこで形成される個人的具体的経験はその本性上断片的なようにみえても、それ自身決して孤立的に存在していないで連続的に変化していく性質をもっているのである。かかる経験が実在的であるのなら、まさしく生の本質をあらわしているものでなければならない。生とは連続的に存在する姿そのものである。しからば経験の小さな断片といえども自己の存在の一部を形成するものでなければならない。いいかえれば「あらゆる瞬間におけるわれわれのあらゆる断片はより広い自己の必要部分であり、それは羅針盤の針のように種々の半径にそってゆれ動く、そしてその中の現実的なものはまだわれわれの眼下にはない可能性と連続的に一つになっている」
(6)のである。信ずる意志とは具体的且つ連続的に存在する経験的断片のまさに推移せんとするための契機なのであり、実在性を保ちつつ行動へと結びつける船頭に他ならないのである。
 このようにジェイムズの哲学は、ペリーのいうように、「普遍性、整合性、一定性ないしはそのような他の知的目的を確定する試みではなく、世界をその完全性においてあるがままにみる試みである。」
(一)この特徴は一般に経験論の哲学と本質的には変わらない。しかしこれまでの論述から推察するとジェイムズの哲学は純粋に経験論であるとはいいがたい。なぜならば経験論とは事実をありのままにみる態度からでているとするならば、ジェイムズの哲学とは若干のくいちがいをみせているからである。
 なるほどある面でジェイムズは事実をありのままにみている。だがわれわれがこれまでジェイムズの哲学の基調にみてきたものはあの奇妙で独特な信ずる意志の働きであり、その存在の認容は経験論の一般的考えと一致するとは容易に考えられないだろう。信ずる意志は事実をありのままにみる態度とは明らかに対立するのではあるまいか。
 信ずる意志を卑俗にいいなおせば次のようになる。それはある確かめられない結果において前もってもっているわれわれの信仰をしてその結果を真実にする唯一のものたらしめている、と。もしわれわれがジェイムズの信ずる意志をそのまま認めるとするなら、ジェイムズの哲学は経験論的であるというよりは宗教的である。この事実は一体どう説明されるのか。
 ジェイムズは経験論を主意主義に結びつけて考えていた。それを可能ならしめているのは経験を単に人間の受動的活動と見ない考え方である。経験は心的機能の機械的作用そのものではなく、知らんとする精神の意志的活動を意味していた。つまりは信ずる意志そのものの活動が経験なのである。
 この考えを支持するために、われわれはジェイムズの経験という言葉を何か特殊なものと考える必要はないであろう。われわれがあることを経験したということによって生じるあの精神のたかまりは換言すればこれまで知らなかったなにものかをえたという結果に対する身体的表現である。
 見知らぬなにものかの体験いいかえれば精神にとって新奇性の感じられる体験を可能ならしめているという事実はわれわれの心的自然的機能が機械的に働いているということの証しではなく、むしろ新奇性を常に自家薬籠中のものとしうる心的自然的機能の積極的活動を認めている証しに他ならないのである。
 ジェイムズによって意味される経験は、精神にとって外的なものと考えられる存在を規定したとしても、それは精神の心的機能そのものによって作られるという点、いいかえれば精神の意志的機能を媒介にしてそのように規定された存在と精神の中で機能している存在との同一性が認められねばならないという点、を強調しているのである。
 実はこの経験論ないしは経験論的主意主義がジェイムズの哲学を宗教的とよばしめている根拠である。宗教の本質は祈りにあるといわれている。ジェイムズは祈る理由を次のように説明している。それは「ただわれわれが祈らざるをえないということにある。『科学』があらゆる逆のことをするにもかかわらず、もし人間の心的本性がわれわれの知るなにものもわれわれに期待させないという様相のもとで変化することがないならば、人間は最後まで祈りつづけるであろう。」
(7)
 このジェイムズの主張は信ずる意志を知るわれわれにはやや消極的である。しかし見方によればこの祈りの現象とは信ずる意志の確信への第一歩を予言している。宗教は確かに祈りや信仰的行為をその特徴としてもっている。とはいえそれは決して経験をはなれてあるのではない。経験の中に宗教的経験とよばれるべき一つの存在様式があるのである。これがジェイムズの経験論を宗教と結びつけたといわれる唯一の理由なのである。
 この意味においてジェイムズのいう経験論とはたしかに全体的観点からは特殊な様相を示している。その意味では哲学史的にみればジェイムズの哲学は従来の経験論に対する挑戦にもなっているのであり、且つジェイムズ自身が自らを経験論者なりと称する限りにおいては、経験論の哲学の本質とは何であるか、というゆゆしき問題提起をしているともうけとられよう。
 われわれは以上によって世界をどう変え、人生をどうつくるかというジェイムズの日常的個人的課題が次第に哲学的に裏うちされていく過程をみた。ここからわれわれはジェイムズの人生観、世界観がすでにすべての個々の人に妥当するテーマとなってきていることに気づくだろう。そしてわれわれはそこから一つの教訓を得ている。即ち生きることの尊さである。人間とはなにかをしうる意志の所有者であるという自覚である。人間はただ単に存在するばかりではなく、その存在の故に一つの行動の権利をともなっているという点である。
 信ずる権利、期待する権利の所有は神聖なる人間の特権である。それは単に虚構的にあるのではなく、それを感じる心というものが人間にあるが故にリアル(実在的)にあるのである。哲学はそういった考え方に基いてわれわれを導いていくのでなければ、ただの蜃気楼であり、逆に人間を死にいたらしめる。われわれの活動的本性に直接的に働きかけない哲学はわれわれの精神にとって合理的ではない。それはわれわれに一つの実在さえも提供しないであろう。
 哲学はわれわれ自身の実在をしっかりと把握しなければならない。哲学は又実在についての明確な信念をもたねばならない。
(二)いやしくも対象をみえるがままにみるという事実だけでは実在を構成するに十分ではない。対象はみえるばかりではなくわれわれの関心を深くし且つ重要にみられねばならない。つまり哲学はわれわれの関心を刺激しゆり動かすものこそ実在なのだと自らに銘記せねばならない。
 「われわれ自身の実在、即ちわれわれがいかなる時においても所有するわれわれ自身の生のその感覚はわれわれの信念にとって究極的なものの究極である。」
(8)哲学はそこから出発し、そして「事物が自己の生との内密で連続的な関係をもっているものならすべてその実存性を疑いえないところのものである」(9)という確信に至ってこそ、哲学はまさにわれわれの生きるよすがとなる、とジェイムズは考えているのである。

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